かもめ   Чайка

脚本:アントン=チェーホフ Anton Chekhov
翻訳:沼野充義
演出:栗山民也
上演:ホリプロ製作
@赤坂ACTシアター(2008年6月)

出演:
藤原竜也・美波・鹿賀丈史・麻実れい・小島聖・勝部演之・中嶋しゅう・藤木孝・藤田弓子・たかお鷹 ほか



あらすじ

19世紀ロシア。
田舎町の、湖畔にたつ屋敷。

青年トレープレフは、芸術家を志している。
彼は退屈な時代に逆行するように、前衛的な芝居を書き、ときおり周囲の人々にお披露目をしていた。
主演女優はいつも決まって、恋人のニーナだった。

あるとき母である大女優アルカージナが、恋人の小説家トリゴーリンをつれて帰省する。
母の前で芝居を披露するトレープレフだったが、皆の前でこき下ろされて自信を失ってしまう。
主演をつとめていたニーナは、アルカージナの何気ない一言で、プロの女優への夢を抱くようになる。

凡才であるトレープレフに対して、小説家として成功しているトリゴーリンは真に才能のある芸術家である。
ニーナは、有名になることとはどういうことかトリゴーリンに話をきくうちに、次第に恋に落ちてゆく。
そしてトリゴーリンもまた、ニーナに恋をしてゆく。
ニーナはトリゴーリンと一緒になることを見越して、モスクワへ上京してプロの女優へ転身する決意をする。

数年後、トレープレフは短編小説を書き、少しずつ世間に認められるようになる。
モスクワに出たニーナは、トリゴーリンとの間に子どもをもうけるが、子どもはすぐに死んでしまい、それ以後は地方をまわる売れない女優になっていた。
叔父の容態が悪くなったので、もとのさやに収まったトリゴーリンとアルカージナが、ふたたび帰省してくる。
そのとき、同時にニーナも故郷の町に帰ってきていた。
偶然にも再会するふたり。
しかしニーナの心は決して、トレープレフには振り向かないままだった。

自分のやっていることがすべて馬鹿げていると感じたトレープレフは、書きかけの原稿を破り捨て、銃で自殺をする。



評

この戯曲は、チェーホフの私戯曲だそうです。
劇中のトレープレフやトリゴーリンはまさしくチェーホフ自身の写し鏡であろうと思われるし、劇中で交わされる芸術論はまさしくチェーホフ自身の芸術論であろうと思われます。
天才と凡才の葛藤や、創作を生業とすることの苦悩などが、生々しく描かれています。

この作品に登場する人物像があまりにリアルなため、僕は観劇後に言葉を失いました。
才能の壁を越えようとして講釈だけは一人前の若者。
命続く限り、書かずにはいられない作家の心情。
恋人よりも、自己の名声をとった少女。
誰よりも自分だけが愛されていなければ気の済まない女。
叶わぬ恋を諦めきれず、望まない結婚を選んだ女。
彼らが「自分こそが一番可哀相だ」というオーラを出しながらぶつかり合い、すれ違って進行していくこの物語は、とてもヒリヒリしています。

これらのリアルな人物たちが、ひとつの場所にタブローのごとく配置されます。
たとえば四幕ではほとんど人物がひとつの場に集まります。
ひとりはソファに座り、ひとりはかたい椅子に座り、ひとりは立っていて・・・
この風景画を「演劇」として生き生きとさせるには、それぞれの人物がそれぞれにバックグラウンドを抱え、相関していることを理解しなければいけません。
ほんの些細な所作ですらリアリティがないと、この「演劇」はたちまち風景画に戻ってしまうのです。
しかがってチェーホフ劇を演じるには、徹底したリアリズムが必要になるのです。

栗山民也は、新劇のリアリズムとはまた違った手法で、チェーホフ劇にリアリティを与えていました。
この作品に登場する俳優たちは、手堅さと変化球の両方を持ち合わせています。
スタニスラフスキーに基づくリアリズムの土壌を持っていないため、手堅い演技をする一方で、時に観客をゾクっとさせるような役者芝居を放ちます。
こうすることでリアリズムとは違った切り口で、チェーホフ劇の人物を「生きた人物」として立ち上がらせることができていました。
それにはもちろん、戯曲の裏に綿密なほど設定された人間像を読み解く必要があります。

藤原竜也と美波は、トレープレフやニーナが持っていたであろう「若さ」ゆえのパワーを存分に表現していましたが、チェーホフ劇特有の繊細さも見せてほしかったところです。
特に藤原竜也のトレープレフ像は「悩める若者」というよりも「怒れる青年」でした。
怒りのパワーは、他者の追随を許さぬほど凄まじいものがあります。
それはそれで決して間違ってはいないのですが、自殺まで起こす「弱い部分」をもっと見せてくれたら、更に良いトレープレフ像になったかと思います。
麻実れいと鹿賀丈史は、緩急や強弱を自在に使い分けて、余裕のある芝居でした。
藤原竜也と美波の疾走感をクッションのように受け止める「受け」の芝居で、この作品が風景画に戻らないように力のバランスをとっていました。
脇を固める俳優の中で特に感服したのが、中嶋しゅうと、たかお鷹です。
とても地味な役どころでしたが、しっかりとキャラクターを作り上げていました。
とりわけ、たかお鷹のメドヴェジェンコはあまりにも地味すぎて存在を忘れるほどです。
しかし「存在を忘れるほど地味な役」というキャラクター作りは、裏を返せば、相当な実力がないとできません。
俳優の手堅さが如実に試される戯曲だと思いました。

劇場中継では、これでチェーホフの四大悲劇の中の三作を放送したことになります。
「桜の園」はすでに俳優座による上演が放送されています。
そして今回はこの作品と、モスクワ芸術座の「三人姉妹」を観劇することになりました。
あとは「ワーニャ伯父さん」でチェーホフの四大悲劇はすべて経験することができそうです。

最後にひとつ。
ニーナが「それも(前衛演劇の)シンボルとして殺したのでしょうけど、ごめんなさい、私にはわからない」と言い放ったかもめの死体。
シンボルになり得なかったかもめの剥製が、トレープレフが自殺することで彼の苦悩のシンボルに転じてしまっていたのは実に皮肉で、興味深い幕切れだったと思います。