脚本:コナー=マクファーソン Conor McPherson
翻訳:小田島恒志
演出:栗山民也
上演:パルコ製作
@PARCO劇場 (2009年12月)
出演:
平田満・吉田鋼太郎・小日向文世・浅野和之・大谷亮介
![]()
アイルランドの寂れた港町。
ここに、目の不自由な兄リチャードと、その弟シャーキーが住んでいる。
クリスマスイブの夜に、馴染みの仲間たちが集まって酒を飲みつつポーカーに興じようとする。
そこへ、仲間のひとりが酒場で知り合ったロックハートという名の紳士を連れてくる。
一緒になってポーカーに加わるロックハートだが、初対面と思われていた彼はシャーキーの過去を知る人物であった。
彼の正体は死神で、20数年前に刑務所でシャーキーと同じ房であった。
シャーキーはそのころ殺人罪で服役中であった。
ある晩、ふたりはポーカーをした。
シャーキーが勝てば、無罪放免にするという賭けをして、シャーキーが勝利した。
ただし、20数年後のクリスマスイブにもう一度ポーカーをして、ロックハートが勝てば、シャーキーの魂を奪うことになっていた。
今日がその夜である。
みな、時間は戻らないことを知りながらも、自堕落な生活を送っている。
リチャードの家に集まっている男たちは誰もがそうである。
ロックハートは彼らの心の隙間を突きながら、シャーキーを追いつめていく。
最後の一戦で、ロックハートはシャーキーとリチャードを下して勝利をする。
これでシャーキーの魂が奪われるかと思われていたとき、実はリチャードの役が一番強かったことが判明する。
失意のうちに立ち去るロックハート。
窓の外はいつの間にか朝になっていた。
イブは明けて、クリスマスの朝である。
珍しく、近くの教会で行われるミサにいこうと言い出して、兄たちは仕度を始める。
ひとり残されたシャーキーに、朝日がまぶしく降り注ぐ。
![]()
Life is Like a Boat
──人生は船のようなものである、という意味の言葉です。
Rie fu という日本人歌手のデビュー曲のタイトルなのですが、「人生は船のように前に進むことはできるけれど、後戻りすることはできない」という意味でつけられたそうです。
この戯曲の舞台はアイルランドですが、この作品の持っているメッセージに通じるところがあるので、引き合いに出させてもらいました。
題名にもなっている「海をゆく者(The Seafarer)」とは、詠み人知らずの古英詩です。
その一部を、ここで引用してみましょう。
彼は知らない
陸の上で安楽に暮らしているから、私が
凍るあの海で、どう冬を過ごしたかを、
惨めに、不安に、ひたすら流浪の道を歩み、
親しい友も無く、ツララに囲まれ、
雹が槍となって吹きすさぶ中で… (訳 リチャード=ヘイマー)
人生の厳しさを、海を漂う者の姿に重ね合わせています。
この作品に登場する男たちは、後戻りできない船に乗って、人生という海をあてもなく彷徨っています。
酒を飲んでは賭け事に興じ、職を転々としたり、まともな仕事につけない彼らを、世間はダメ男と呼びます。
彼ら自身、みずからすすんでダメ男になったわけではありません。
ただ、人生という海をあてもなく漂っているだけなのです。
世間的にみれば褒められたような人生ではないのかもしれません。
だけど、彼らにしてみれば一人前に生きている立派な人生なのです。
酒を片手に大騒ぎしながらポーカーをする男たちの姿から、ぼんやりと「人生」というものが浮かび上がっています。
この作品には死神が登場するものの、決して陳腐にはなっていません。
ロックハート自身、決して死神然することなく男たちと一緒に酔いつぶれてしまいます。
そして、彼がねらっているシャーキーには重く暗い人生が背負わされています。
喧嘩っ早い性格ゆえに職を転々とし、家族を失い、そして今は目の不自由な兄の介護に疲れ切っている彼の人生は決して明るいものではありません。
しかしマクファーソンは、酒とポーカーと下品な会話でその暗さ・重さを吹き飛ばします。
彼が背負わされた人生の大きさが垣間見えるのはほんのわずか。
ウィスキーに酔いしれたほんの一瞬のときだけです。
クリスマスイブの夜、そんな彼らのもとに悪夢と奇跡が訪れ、さながら希望の光のごとく朝日が降り注いだとき、この作品は上質な会話劇であったことがわかります。
出演する俳優たちは、人気も実力も兼ね備えた手練れたちです。
決して華やかさはないけれど、ウィスキーのように渋い魅力のある俳優たちです。
五人それぞれの個性を、上質な会話劇にまとめあげられたのは栗山民也の演出なしには語れません。
「かもめ」でも感じたのですが、栗山民也は人間関係を深く掘り下げる演出家です。
この五人の個性は、ひとつひとつがとても強いため、下手をすると不協和音すら奏でてしまいます。
しかし栗山民也は五人の人間関係を掘り下げ、彼らのあいだに力関係の上下や、存在感の大小を与えました。
そうすることで、五つの個性がしっくりと馴染んで、自然とドラマが生まれます。
子どもようにわめき散らしたかと思えば、渋い表情を見せる吉田鋼太郎のリチャード。
常識人だけれど凶暴なもう一つの顔を持つ、平田満のシャーキー。
頼りなくて情けないけれど誰からも愛される、浅野和之のアイヴァン。
紳士的な顔の裏に冷酷さを隠し持っている、小日向文世のロックハート。
調子はいいが世渡りが下手な、大谷亮介のニッキー。
こんな五人がカード片手に大騒ぎをして、物語が生まれないわけがありません。
五人それぞれが、いい意味で火花を散らしていました。
2003年8月、パルコ劇場で画期的な出来事が起こりました。
長塚圭史演出による、マーティン=マクドナー作「ウィー・トーマス」の上演。
それまでアイルランド演劇に馴染みのなかった日本演劇界にとって、これは全く新しいタイプの演劇でした。
なぜなら、膨大な台詞のやりとりに激しい感情のぶつかり合いを融合させるのは、アメリカ演劇やフランス演劇ではできない芸当だからです。
この上演は多くの賛辞を与えられ、3年後には再演されました。
そればかりかパルコ劇場では「ピローマン」「ビューティー・クイーン・オブ・リナーン」と、立て続けにマクドナー作品が上演され、アイルランド演劇はとても注目されるジャンルの演劇となりました。
僕自身は、この作品でアイルランド演劇を初めて体験することになったのですが、緊迫感と遊び心のメリハリがあり、とても見応えのあるジャンルだと思いました。