脚本:寺山修司・岸田理生
演出:蜷川幸雄
上演:メジャーリーグ + ホリプロ 共同製作 (初演:演劇実験室◎天井棧敷/1978年)
@彩の国さいたま芸術劇場 (2002年1月)
出演:
藤原竜也・白石加代子・三谷昇・蘭妖子・石井愃一・笠原織人・日野利彦・マメ山田 ほか
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少年しんとくは、幼いころに母を亡くし、今もその面影を忘れられない。
しかし世間体を気にする父親によって、ある日異形の旅芸人たちが開く「母を売る店」で新しい母親・撫子を買い求める。
しかし新しい家庭になじめない一方で、父・撫子・せんさくが家族を作りつつある狭間に悩み続ける。
二年経っても撫子のことを認められないしんとくに対して、撫子は鬼となり彼を呪う。
その結果、しんとくは盲目となり、姿を消す。
時が経ち、しんとくは撫子の仮面をつけてさまよい歩く。
しかし、しんとくはすでに狂気にとりつかれており、成長した義弟を見つけるや否や、犯して殺してしまう。
父親もいつしか撫子に捨てられ、精神が崩壊しているようだった。
しんとくと撫子は、再び再会する。
二人にはもう「家」というしがらみはない。
しんとくが生みの母に向けていた愛情は、そのまま撫子への愛情に投影される。
ようやく二人はお互いを愛し愛されるようになる。
どこへ行くともしれぬ二人の姿が、異形の者たちの中へと消えてゆく。
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「お母さん、もういちど僕を妊娠してください」
目まぐるしく繰り広げられる、母と子の毒々しいイメージの数々は、最後になってこの一言に行き着きます。
日本には中世より、母と子の愛憎の系譜があるそうです。
継母に呪われて失明し、彷徨うことになった少年を描いた説教節「しんとく丸」からその系譜がうかがえるようです。
その説教節は後世になって謡曲『弱法師』として芸術の形を成し、ついで人形浄瑠璃や歌舞伎『攝州合邦辻』として大成したそうです。
そして昭和になって三島由紀夫がロジックという骨組みをもってして近代劇に仕立て上げました。
日本古来よりの系譜では「しんとく丸」自身の絶望と救済を主軸におかれているのですが、寺山修司は絶望と救済という主軸はそのままに、「母と子の禁断の愛情」「マザーコンプレックスの極地」へと反転させたのです。
寺山の作品には「母」という要素が多く登場し、彼の人物像を語る上でも「マザコン」という表現は欠かせないようです。
しかしここで興味深いのは、撫子を母として愛すと同時に、ひとりの女性としても愛するということです。
男児にとって母親というものは、一番最初の女性であります。
男児が初めて女性というものに邂逅したとき、それを恋愛による愛情ではなく二律背反的なオイディプス・コンプレックスに変容させてしまう要因を、寺山は家族制度の中に見いだしています。
母を買うというイメージ、家族合わせというゲーム、そして生みの母と継母という関係性は、男児の内的世界における家族制度のありようを逆説的に示しているような気がしてなりません。
現に「しんとく」にとっての救済は、家族制度が崩壊して「母子」という関係性ではなく「男女」という関係性で撫子と再会するという形しか有り得ないといっています。
そして痛々しいことに、その救済の極地は「あなたの子どもとして生まれたいという」胎内回帰的なものであるということ。
他の女性像へと羽ばたくことはせず、蛇がそのしっぽをくわえるように男児と母との愛憎は永遠のループを描くのです。
男子の愛情というものは、どう足掻いても「母」という枠組みを超えられないのです。
毒々しくも、美しいイメージの連続でした。
大ざっぱな粗筋こそありますが、ストーリーテリングをするのではなく、ストーリーに沿って美しいイメージを次々に繰り広げるといった印象でした。
岸田理生との共同執筆ということで、もちろんアングラ特有の猥雑さの中に、どこか女性的な感性を感じることができました。(どこまでが寺山の意図した範囲で、どこまでが岸田の意図した範囲なのかは分かりませんが)
男性では表現できない繊細な詩情性が、アングラ演劇を美しい愛憎劇として世界に認知させた最大の要因だと思います。
そしてこの目くるめくイメージの連続というところが、斬新なビジュアルでは右に出る者のいない蜷川幸雄の美学とマッチしていたのかもしれません。
天井から光の雨のごとく降り注ぐ火花。
異形の者たち。
その雑踏の中から現れ、そして消えてゆく「しんとく」と撫子。
血のように真っ赤な夕日。
桜の大樹。
白塗りの仮面たち。
毒々しい歌。
おそらくリアリズム的なストーリーのある舞台だったら、いつもの ”見た目だけに終始する冗長な” 蜷川芝居になっていたことでしょう。
しかし言葉少なに豊富なイメージだけで見せるからこそ、蜷川の持ち味が120%発揮された素晴らしい舞台になったのだと思います。
90年代の日本演劇を語る上では欠かせないこの舞台に触れることができて本当によかったと思います。
初舞台でありながら初主演をつとめ、世界中から絶賛の嵐をあびた藤原竜也。
床をのたうち回るかのような、お馴染みの絶叫芝居は激しい愛憎がうずまくこの戯曲にとても合っていました。
15歳でこれほどリアルに絶叫し、白目をむき、悶えることができるのはやはり才能というものでしょう。
ただ残念なのは、彼特有の絶叫芝居は蜷川幸雄の舞台だからこそ通用するものであるということを再認識させられたということ。
しかしもちろんのこと水準は非常に高く、名演には間違いありません。
そして「母」として偉大なる存在感をみせた白石加代子。
こちらは上演当時に各演劇賞で絶賛されたので多くは語りませんが、やはり素晴らしかったです。
母の厳しさ、包容力、そして女性性を兼ね備えた彼女もまた名演でした。
そして藤原竜也が体中を使って精神の葛藤ぶちまけ、それを偉大なる包容力で包み込むこの白石加代子の壮絶な絡みもまた、名演であるといえます。
個人的には、蘭妖子と石井愃一の存在がとても興味深かったです。
凄みのある主役ふたりにかき消されることなく確実にそこに存在する蘭妖子の「小間使い」、出番は少ないけれど絶対に忘れることのできない石井愃一の「仮面売り」。
特に石井愃一は「ハムレット」での瑳川哲朗と同じく、蜷川幸雄の舞台では脇役をつとめることが多いため、これまであまり意識していなかったのですが、今回は熟練の凄みを見せつけてくれました。
最後に、宮川彬良によるメロディに乗せられた、藤圭子・深沢敦・コシミハルらの歌がとてもよかったです。
すべての才能が結集した舞台なのだなと思いました。
観劇生活が一段落して、その暇を埋めるための市販DVDによる観劇だったのですが、とてもいい経験をしたと思います。