脚本:ウィリアム=シェイクスピア William Shakespeare
翻訳:松岡和子
演出:蜷川幸雄
上演:ホリプロ製作
@愛知厚生年金会館 (2005年1月)
出演:
藤原竜也・鈴木杏・瑳川哲朗・梅沢昌代・壌晴彦・立石涼子・妹尾正文・スズキマリ・高橋洋・清家栄一・横田栄司・月川勇気・井上顕・藤井びん・マメ山田・グレート義太夫
ほか
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ヴェローナの街では、キャピュレットとモンタギューという二つの名家が対立をしている。
両家の若者たちは日々暴力に明け暮れ、太閤も手を焼いているほどである。
モンタギュー家の跡取り息子・ロミオは、あるときキャピュレット家の仮面舞踏会に忍び込むことになる。
そこで出会ったキャピュレット家の一人娘・ジュリエットと知り合い、二人は恋に落ちる。
ロミオとジュリエットは、神父のもとで婚約の契りを交わす。
しかし両家の若者同士の抗争の中で、キャピュレット家のティボルトによってロミオは親友マキューシオを殺されてしまう。
怒りにまかせてティボルトを殺したロミオに下されたのは、ヴェローナからの追放という処罰だった。
そしてジュリエットは、父親の決めた婚約相手との結婚を迫られる。
結婚を中止しない限り自殺をするとほのめかすジュリエットに、神父は薬のビンを渡す。
その中には、42時間だけ仮死状態になる薬が入っている。
ジュリエットを一度死んだものとし、蘇ってからロミオと駆け落ちさせるのだ。
その提案に乗ったジュリエットは、結婚前夜に薬を飲んで仮死状態になる。
しかしその知らせを聞いたロミオは、ジュリエットが死んだものと思いこみ、自らは本物の毒薬を買って服毒自殺する。
仮死状態から目覚めたジュリエットは、ロミオが死んでいることを知り、絶望のあまり短剣を胸に刺して、本当に自殺をする。
ふたつの遺体を前に、両家の親たちは同じような悲劇を繰り返さないために、雪解けを誓う。
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現代的なロミオとジュリエットでした。
と同時に、等身大のロミオとジュリエットでもありました。
中越司によってデザインされた舞台美術は、さながら60年代のポップアートのごとく、世界中の若者のモノクロ写真によって埋め尽くされたものでした。
この舞台美術は、「世界中の若者はみなロミオとジュリエットである」という恋愛の普遍性を表現しています。
どんな国・地域にいても、経済的に格差があっても、社会情勢が悪くても、いつの時代も若者たちはみな命がけで恋愛をしています。
恋する男女は、誰もが自らの恋愛物語の主人公であり、ヒロインです。
そのような「誰もがロミオであり、誰もがジュリエットである」という普遍性を表現した美術は、この戯曲がエリザベス朝のカビくさい恋愛譚などではなく、永遠の恋愛物語であることを示しています。
それだけでも秀逸な美術だったのですが、また違った側面を持っていることに気づかされました。
それには「60年代のポップアート風」という要素が、一つの鍵となっています。
60年代というと、大人たちが作り上げた社会に対して若者が反抗をした時代です。
たとえば「エデンの東」やローリング・ストーンズ、ベトナム反戦運動などの文化がその時代の空気を非常によく表しています。
なぜ60年代が鍵になるかというと、「ロミオとジュリエット」は一体どういう物語であるのか思い出してみてください。
敵対する両家のあいだで引き裂かれた男女の悲恋物語であると同時に、「両家の対立」という大人が作ったシステムに対して、禁じられた恋愛という形で意義をとなえた若者の物語でもあります。
このような「大人の作った体制に抵抗する若者」という構図が、そっくりそのまま60年代の若者たちの姿に重なってくるのです。
現に、この舞台では両家の若者たちを60年代のギャング風に描いています。
剣こそたずさえていますが、革ジャンやサングラスをかけた少年たちのビジュアルはそのまま闘争心に燃えた「あの時代」の若者像に重なります。
つまり蜷川幸雄はシェイクスピア劇の格調よりも、若者たちの荒々しいパワーや疾走感をテーマにしたのだと伺い知ることができます。
確かに考えてみれば、我々がこの物語にイメージするような上品な悲恋を、思春期の子どもたちがするはずありません。
思春期の恋愛は幼く、疾走していて、そして荒削りのパワーがあります。
そういう意味では、現代的で等身大な「ロミオとジュリエット」であったと思います。
(余談ですが、このような演出上のテーマは、大人たちの中で若さを爆発させる「血の婚礼」や、若さの衝動を詩的な言葉に置き換えた「カリギュラ」にも通じるものがあります)
そのように考えると、他の劇評で「ひたすら叫び、泣きわめている」と評された藤原竜也と鈴木杏の芝居は、的をはずれてはいないのかもしれません。
大声でわめき散らせば散らすほど、それは恋愛に対する「幼さ」意味します。
禁断の恋という状況に対してわめき散らすことしかできない「幼さ」があるからこそ、自殺という結末しか選べなかったのです。
幼い顔立ちをしているこの二人だからこそ、ロミオとジュリエットは美男美女がやるものだという先入観を打ち払い、思春期の若者の物語に仕立て上げることができたのです。
とりわけ鈴木杏は決して美女ではありませんが、13歳の少女らしい素朴さがありこの作品のジュリエット像そのものでした。
スタッフワークについては、非常に優れた舞台でした。
先述したように中越司の美術をはじめ、小峰リリーによる衣装も蜷川幸雄のねらいを的確に表現していました。
両家の衣装を白と黒に分けていて、とても関係が分かりやすかっただけでなく、ギャング風のビジュアルがとても秀逸でした。
とりわけ下品な役どころであるマキューシオのビジュアルは斬新。
裸にサスペンダー、丸いサングラス、そしてモッズコートという出で立ちはまさに現代的なマキューシオ。
これで高橋洋が、もっとはじけてくれたら文句はなかったのですが。
ロミオが白いセーターを着ているのも、現代的でとてもよかったです。
原田保による照明は、一筋の光や、強い逆光などを駆使しており、光が差すだけで何かストーリーが始まるのではないかと思わせられる照明デザインでした。
笠松泰宏による音楽もまた、メロディアスなピアノ曲が華を添えていました。
裏を返せば、これほどスタッフワークが優れているのにそれほど評価されないのは、ロミオをはじめとする若者たちに荒削りな疾走感が足りなかったということがいえます。
そして蜷川演劇の共通点である「泣き」の演技が冗長すぎるという点と、月川勇気のパリス伯爵が弱すぎたという点。
特に月川勇気のパリスは、端役ならがも不可欠な役どころなので、その割には線が細すぎたように感じました。
シェイクスピア劇の代表作ともいえるこの作品に触れられて良かったと思います。
やはり四大悲劇以外に、「ロミオとジュリエット」を観ずしてシェイクスピアは語れないと思ったためです。
やはりこの戯曲が、永遠の恋愛物語として語り告がれているのは、言葉の力によるものだと思いました。
筋書きが単純だからこそ、台詞の豊穣さがとてもよく分かりました。
むしろ筋書きが単純なこの物語をここまで分厚くさせているのは、美しく詩的な言葉の山なのです。
それだけ、他の戯曲よりも美しい台詞にあふれているといえます。
シェイクスピアによる美しい言葉を改めて感じた観劇となりました。