脚本:野田秀樹
演出:野田秀樹
上演:野田地図
@Bunkamuraシアターコクーン (1998年4月)
出演:
野田秀樹・キムラ緑子・羽野晶紀・平沢智・植本潤・加藤貴子・貴山侑哉・多田慶子・西川忠志・阿部サダヲ・松村武・八嶋智人・冨樫真 ほか
![]()
その大河のほとりには、人々が住んでいた。
そして石も住んでいた。
あるとき、河をはさんで二つの国家ができる。
ロックの王国(キングダム・オブ・ロック)とフォークの王国(フォークランド王国)である。
その河辺はちょうど二つの国家の境界線上に位置してしまうことになる。
ロックの国王ブルービアドは、フォークの王妃ブリュヌオーの双子の姉(フタゴ)を妻にめとろうとする。
しかしその容姿から結婚を破棄。
ブルービアドは河辺で売春をはたらいていたマカリと結婚し、彼女ははフタゴを毒殺してしまう。
これにより、両国のあいだで戦争が勃発する。
両国の威厳を示すために、河原には石でできた巨大な塔が築かれる。
国境線によって分断された河原の人々は、いつしか戦争に巻き込まれてゆく。
その一方で、ひとつの石が子どものいないマカリ夫婦に拾われた。
石は「こうた石(皇太子)」となって、マカリの子どもとなり、溺愛された。
こうた石は、敵国の妃であるブリュヌオーに惹かれており、ブリュヌオー自身もそのことに気づいていた。
彼女は、マカリをもっとも苦しめる方法として、こうた石に自殺をさせることを思いつく。
こうた石の目の前で、他の男と親密になっているフリをした。
絶望したこうた石は、毒を飲んで自殺し、そして河原の石に戻った。
マカリもまた絶望し、そしてブリュヌオーと全面戦争になる。
だがブリュヌオーのこうした非道も、マカリによって王子を殺された母としての行動なのである。
石に戻ったこうた石は、両国の対立によって命を落としたことで戦争のシンボル(石の神様)に祭り上げられる。
彼が祭り上げられた石の塔の下では、マカリとブリュヌオーの戦争が行われていた。
ブリュヌオーが優勢かと思われたそのとき、この対立のそもそもの火種であるフタゴが、実は死んでいなかったことがわかる。
美しくない姉から美しい妹への、ほんの少しの嫉妬心であったのだ。
戦争の目的を失って、崩壊するブリュヌオーの軍。
妃どうしの一騎打ちとなるが、ともに刺し違えてお互いに死ぬことになる。
戦争はようやく終わりを告げた。
そして戦いに疲れきった河原の人々は、凍った河面をわたって新しい世界へと旅立ってゆく。
河原の石たちとともに。
![]()
端的な問題として、人間と猿との違いは何であるのか。
思考を持つ、文化を持つ、自殺をすることができる、などの答えがいくつか出てくると思いますが最も大きな違いは戦争をすることができる、ということではないでしょうか。
野田秀樹は、戦争という物語を二国間の二項対立として描くことはしませんでした。
中立の立場の人々を加えた三者間の物語として描くこと浮かび上がったのは、人間がおこなう戦争の不毛さです。
ふたつの国の間で争いが起こっても、河原の塔だけは常に中立です。
その高い塔から見下ろす戦争の景色は、所詮は私情にかられた脆いもの。
罪もなき人々を分断し、罪もなき命を失う戦争の愚かさを知っているのは塔をかたちづくる石たち。
しかしその塔ですら権力を誇示するために造られたものです。
マカリとブリュヌオーの争いは「愚か」以外の何物でもありません。
と同時に、争いそのものの愚かさまでも見えてきます。
また先述したように、主人公を河原の石とすることで戦争をとても客観的に見つめることができ、「人間が行う行為」としての側面が強くあぶり出されることになりました。
それが最も強く表現されたのはフタゴが生きていたと分かる場面。
積み上げられた死体の下から殺されたはずのフタゴが現れ、この戦争の理由が根本から覆されます。
なぜならフタゴが殺された復讐として、この戦争が始まったのですから。
しかもフタゴはむりやりを「死んだ存在」に仕立て上げたのではありません。
優秀で美しい妹に対してささやかな復讐をするために、自ら望んで「死んだ存在」となったのです。
これで初めて妹に勝つことができたと、フタゴは言います。
その瞬間、この戦争の意味など全くなくなり、不毛さ・愚かさだけが残ります。
それだけのために多くの人間の命を犠牲にし、それだけのために多くの涙が流されてきたのですから。
それを河原の石は、冷静な目で見つめます。
野田秀樹が主演をつとめるのは、劇団を解散してから初めてのことですが、体格も声色も小さな「石」にマッチしていたと思います。
とりわけブリュヌオーに失恋をして絶望する場面では好演していました。
しぼり出すように声を上げ、はしごから転がり落ちたその様子がとても悲しく、美しく、「ローリング・ストーン」では一番のシーンでした。
また、蓮っ葉なキムラ緑子と、若く気丈な羽野晶紀の対比も面白かったです。
この二人が決定的に異なるのは、子どもの有無。
決して台詞には表れていないこの違いを、ふたりは直接的に表現することなく、台詞の裏側から染み出すように表現していました。
脇も光っていましたが、その中でもフタゴ役の多田慶子は最も好演していました。
当初は印象が薄かったのですが、屍の山の中から死んだはずのフタゴが生きていて「これは長い長い無言電話だったの」と長台詞をいう場面では、観客の注目をたった一人でさらっていました。
口下手なフタゴがずっと胸に押さえ込んで言えなかった心情を、淡々と、けれど地にしっかりと足をつけて語る様子は圧巻でした。
また美術も独特で、俳優たちがフリークライミングのように壁に登ることで、石がつみあげられる様子を表現していました。
野田地図おなじみの「見立て」の演出の中で、死体だけが人形を使っていたことにも注目しました。
抽象の中に放り込まれたただひとつの具象が、ドキッとするような鮮烈なイメージを放っていました。
野田秀樹の作品群の中では地味な作品ですが、地味なりにじっくりとした味わいがあります。
「オイル」のようにダイレクトにメッセージを伝えるのではなく、筋書きの内側から染み出るようにメッセージを伝える作品でした。