脚本:近松半二・竹田和泉・北窓後一・竹本三郎兵衛
(文楽 『奥州安達原』より、四段目「一つ家の段」「谷底の段」)
台本:宮城聰
演出:宮城聰
上演:ク・ナウカ
@文化学園 (2007年2月)
出演:
美加理・寺内亜矢子・大高浩一・牧野隆二・大内米治・池田真紀子・野原有未・鈴木陽代・桜内結う・本多麻紀・吉植荘一郎・石川正義・本城典子 ほか
![]()
東北地方の荒野に立つあばら屋では、ひとりの老婆が住んでいる。
名を、岩手。
そこへ都を追われた夫婦(生駒之助と恋絹)が一夜の宿をと、あばら屋を訪れる。
ところが、生駒之助が家を離れたすきに、恋絹を殺してしまう岩手。
恋絹は妊娠しており、その胎児の血をしぼりとる。
岩手は前九年の役で没落した安倍氏の生き残りで、一族の再興をねらっていた。
皇室の乳母と通じ、まだ幼い天皇の弟(環の宮)をさらってきたのはいいのだが、宮は声の出ない病をわずらっていた。
病を治すには、胎児の血を飲ませなければならない。
しかし殺した恋絹が自分の娘であることがわかる。
そればかりか、グルであったはずの乳母は、宮に血を飲ませずに谷へと捨ててしまう。
実は乳母と宮は、安倍氏の政敵が変装していたのだ。
すべてが失敗した岩手は、谷底へと身を投げて自殺する。
谷底では、安倍氏の残党・安倍貞任がひそんでいて、世界を変えることのできる宝剣を渡す。
![]()
「世界の終わり」という言葉がある。
多くの場合、人はその言葉を環境破壊や核戦争や天変地異による地球の滅亡ととらえます。
もちろん間違いではありません。
しかし「精神的な世界」の終わりというものも存在します。
たとえば、とある個人が自殺に追い込まれるほど絶望のど真ん中に落とされたとき、周囲の「世界」は真っ暗闇で何もないのに等しいのではないでしょうか。
それもまた、ひとつの「世界の終わり」であるといえます。
「奥州安達原」は、そんな作品のひとつです。
ベケットの「エンドゲーム」の劇評でも触れたのですが、改めて言及すると、これは「エンドゲーム」が個人の中で起こっているといえるのです。
「エンドゲーム」では外の世界はすでに核戦争後であるかのように荒廃し、シェルターの中の生活も終焉するという、明らかに「世界の終わり」を描いた作品です。
地球規模でもあり、国家規模でもあり、個人規模での「世界の終わり」でもあります。
「エンドゲーム」に描かれた事が、岩手の周囲と彼女自身の内部でも起こっているのではないでしょうか。
仲間の裏切りによって阿部氏の再興という目的が絶たれる=自分の周囲(自分の外)にある「生きる目的」を喪失してしまうことです。
そして再興などできない阿部氏のために実の娘を殺してしまう=自分の内部にある「生きる目的」を喪失してしまうことに等しい。
そしてすべてを失って孤独になったハムが自殺(ハンカチを顔にかける)をしたように、岩手も谷底へ身をなげて自殺をするのです。
ゆえにこれは「個人レベルでの世界の終わり」(=絶望)を描いたものなのです。
ただし「エンドゲーム」と決定的に異なるのは、世界が終わったあとに再生への希望を託しているところです。
阿部貞任の持つ宝剣が地球の形をしていることからも、それが分かります。
「エンドゲーム」的でありつつも、「ゴドー」的でもあるのです。
そのような解釈を可能にしたのは、宮城聰による構成・演出によるものです。
もともとの「奥州安達原」という文楽はとても長いものなのですが、ここではその中から「安達原の鬼婆」という別名でも親しまれている箇所を抜き出しています。
宮城聰は、そこへたくさんの新しい実験を詰め込むことで、伝統芸能を現代演劇として蘇らせたのです。
地球儀を宝剣に見立てるなどのギミックがすでに登場しましたが、それよりも特徴的なのが造語で会話をしていること。
古語の蝦夷方言だと書いたレビューが多いのですが、宮城聰本人がインタビューの中でこれは造語であると答えています。
都からきた生駒之助の言葉は、古語に近く聞き取りやすいのですが、岩手ら蝦夷に住む人物の言葉はまったくわかりません。
これは当時の文化的差異を分かりやすい形で表現したものだそうです。
というのも平安時代の当時、都の言葉と方言とではまるで外国語に匹敵するほどの違いがあったそうです。
岩手の家と外界との間にはあるクレバスのような谷は、蝦夷とそれ以外の世界との文化的な断絶を表現してます。
岩手がそのクレバスに飛び込んで自殺をすることは、文化のエアポケットに落ちて破滅した人間の姿を暗示しています。
これは決して、壮大な歴史劇の一部などではなく、文化の歪みに押しつぶされた人間の姿を描いているのです。
日本の伝統芸能をこのようにして、普遍的な現代演劇として蘇らせた宮城聰の演出には感心させられました。
「王女メデイア」では蝶のように美しく舞っていた美加里ですが、今回はほとんど動きません。
大きく動くとしたら、恋絹を殺すときと、自殺をするとき。
しかしながら「動かない美加里」の存在感はとても大きいものでした。
何も語らずにそこに座っている、まるで巨大な岩のような「静」の存在感に唸ります。
最後に「美しい美加里」を見ることができなかったのは残念ですが、その一方で恋絹のムーバーを演じた寺内亜矢子がとても美しかったです。
さすがに存在感は美加里には及びませんが、彼女とは違った、風に舞う桜の花びらのような儚い美しさが感じられる女優でした。
ただ、阿部一徳や中野真希などのおなじみの男優が出演していなかったのが心残りですが。
この公演を最後に宮城聰が静岡芸術劇場の芸術監督となるため、ク・ナウカの実質的な解散公演です。
活発に公演を行っていた中での活動休止は、残念な思いでいっぱいです。
ク・ナウカの公演で劇場中継されたのは、この舞台を含めてたった3回──もっと取り上げてほしかったというのが本音です。
しかしこれが解散公演だと思えないところに潔さがあります。
たいていの解散公演は一番人気の高い演目を再演するなど集大成を見せるものですが、ク・ナウカは新しい可能性を提示して解散をしました。
つねに新しいことにチャレンジするク・ナウカらしい公演でした。