オイル

脚本:野田秀樹
演出:野田秀樹
上演:野田地図
@Bunkamuraシアターコクーン (2003年4月)

出演:
松たか子・藤原竜也・小林聡美・片桐はいり・山口紗弥加・橋本じゅん・進藤健太郎・小手伸也・土屋良太・北村有起哉・山中崇・越志マニング・野田秀樹



あらすじ

1945年、日本は太平洋戦争に敗北し、アメリカによる占領統治を受けていた。
その頃の島根。
電話交換手の女・富士は、神様など目に見えない存在と電話で会話することができる。
しかし周囲はそれを富士の狂言だと思っている。
ある日、彼女の家に、脱走兵のゼロ戦が不時着する。
脱走兵の名はヤマト。
特攻隊として出撃したものの、命が惜しくなって逃げ出したのだ。

折しも、島根には日系米人のマッサーカ軍曹らが進駐していた。
ヤマトは同じく脱走兵であるヤミイチとともに、軍曹ら相手に闇市商売を始める。
そのときにふとしたことから、富士がこの島根の地で油田を発見したことを知る。
途端にマッサーカ軍曹はヤマトに関わり始める。
もしも島根で石油を見つけることができたら、ヤマトをアメリカ人にしてあげると。

やがて油田の話は広まり、人々は富士の手を神の手だというようになる。
大國教授が主張する、古代出雲の女神・マホ女の手だと。
しかし石油の出る島根を買収しようとするアメリカ(マッサーカ軍曹ら)に対抗して、神がかった富士は復讐すべきとアジテートする。
だがアメリカ人になりたいヤマトらによって、その復讐は潰えてしまう。
なぜなら富士の見つけ出したという油田は捏造であったためである。
しかしその頃にはもう進駐軍は去ってしまっていた。
原爆の投下目標が、広島に決定したためである。
彼らは、戦後の夢を先走って見てしまっていたのだ。今はまだ、敗戦前だったのだ。

そして富士のもとに、特攻隊から逃げ出したまま行方不明になった弟ヤマトからの電話がかかってくる。
発信元は広島。
しかし途中で原爆が投下され、無惨にも電話は切れる。
そして富士は、もう一度電話をとって「神様」にたずねる。
どうして天国をこの世につくらなかったのか、どうして原爆を落とされたのにハンバーガーを食べられるのか、恨みには時効があるのか。
その答えを教えてくれたら神様の存在を信じても良い──いいやもとい、神様の助けがほしいと。



評

日本という国家は1945年に、いちど滅びたようなものである。
広島と長崎への原爆投下。
20世紀は「戦争の時代」「核の時代」であるという言葉がありますが、1945年の8月に起きた出来事は最もそれを象徴しています。
原爆が投下されたことでそれまで天皇を中心とした「神の国」である日本の姿は終わりを告げ、アメリカの指導のもと民主主義による全く新しい国家へと生まれ変わったのです。

野田秀樹は戦争というものを通じて、この世界に対する疑いの目を向けています。
「天国があるというのなら、何故あの世に作るの」
電話交換手の富士が呼びかけている神様は、もしかしたら天照大神=天皇のことかもしれません。
あらすじには書きませんでしたが、この戯曲は戦後の島根の物語に古代日本の神話の世界が交錯するストーリーとなっています。
戦後の島根と古代日本をつなぎ合わせることでサブリミナル的に天皇の姿を浮き上がらせています。
神に対して「なぜ天国をあの世にしか作らなかったのか」と問うている言葉の裏には、なぜ神様ともあろう者が戦争というものでこの世から天国を奪い去ってしまったのかという批判が込められています。
「ほんとは助けが欲しい。あなたの。聞こえていたら、返事して、神さま」。
幕切れに締めくくられるこの言葉は、決して天皇制の復活を呼びかける言葉ではありません。
原爆が落とされてすべての希望がなくなった大地で、人類に対して何の返事もしない神に向かって投げかけられています。
松たか子は、まったく助けてくれない神様にむかってあえて助けてと言うことで、神に対する絶望を表現していました。

つまり、これは明らかに天皇を告発する戦争寓話なのです。
神の作ったこの世界には絶望しかないのか、という叫びが聞こえてくるかのようです。
人間は世界を変えることなどできないのに、なぜ神は「悪」を残して(言い換えれば世界を中途半端に作りかけたまま)去ってしまったのか、という疑問。
ブレヒトの「セツアンの善人」や蜷川幸雄が演出した「ペリクリーズ」においても同様の疑問が投げかけられています。
それが、野田秀樹による「この世界に対する疑いの目」でもあるのです。

また、「アメリカでは石油と書いて自由と読む」「8月に原爆を二個落とされたから、9月に飛行機を二機飛ばす」などの台詞が象徴するように、この戯曲は現代にも問題を照射させる力を含んでいます。
野田秀樹の主張が物語よりも強いように感じましたが、むしろそれは日本人としてどうあるべきかを挑発的に提言したものかもしれません。
富士を演じた松たか子は、神がかり的な演技によって野田秀樹の挑発をダイレクトに観客へ伝えていました。
「ひばり」でも同様のことが言えますが、このように一直線にものを見る人物がとても合っています。
アメリカへの復讐をアジテートする姿は、本当に取り憑かれたかのようでした。
神の声を聞けるがゆえに「神」を捏造して、国民を扇動する富士の姿は、世界各地の指導者の姿に重なりました。

「オイル=老いる」という言葉遊びのみを残して、野田秀樹は「キル」にみられるようなファンタジーを脱ぎ捨てました。
代わりに散りばめられたのは、胸に突き刺さるような言葉の数々。
やわらかなファンタジーの中にギラリと光る刃を内包していたの作風から、刃を剥き出しにするようになりました。
折しもこの作品が初演される頃、イラク戦争が勃発しました。
この戯曲が書かれたのはその1年半も前だというのに、世界がこの戯曲のように動いてしまったのです。
剥き出しの刃は、野田秀樹の怒りです。
自ら絶望への道を選択してゆく世界に対しての怒り。
そして半ば諦めをもってそれを容認してゆく国民に対しての怒り。
その怒りを、戯曲という挑戦状に込め、社会に対して叩きつけているのかもしれません。