脚本:エウリピデス Euripides
構成:宮城聰
演出:宮城聰
上演:ク・ナウカ (初演:1999年)
@東京国立博物館 本館特別5室 (2005年7月)
出演:
美加理・阿部一徳・大高浩一・江口麻琴・中野真希・片岡佐知子・吉植荘一郎・諏訪智美・野原有未・萩原ほたか・牧野隆二 ほか
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明治時代の料亭。
官僚たちが夜のお座敷遊びを始める。
男たちが読む台詞に合わせて、女たちが芝居を演じるのだ。
こうして「王女メデイア」が演じられる。
軍人であるイアソンは、金の羊毛を手に入れるために異国へ渡る。
そこで出会ったメデイアという女を、妻として連れ帰る。
しかし出世に目がくらんだイアソンは、メデイアとの婚約を無視して、権力者クレオンの娘と婚約する。
当のクレオンも、メデイアの懇願むなしく、その日のうちに街を出て行くように言う。
怒り狂ったメデイアは、触れれば火につつまれる結婚衣装をクレオンのもとに送り、クレオンもろともその娘を焼き殺す。
そして裏切ったイアソンを苦しめるために、彼とのあいだにできた子どもを刺し殺す。
絶望したイアソンを尻目に街をあとにするメデイア。
芝居はここで終わる。
そして男の支配から解放された女たちが現れ、男たちを刺し殺して反逆を行う。
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野性的・暴力的・支配的
──幕切れ、女たちによる反逆の場面で鳴り響くパーカッションを聴いていると、そんな言葉が思い浮かびます。
激しいリズムで打ち鳴らされる打楽器は、まるで人間を原始に戻すかのような響きを持っています。
それどころか、この作品に含まれている問題そのものが、人間の原始なる部分に突きつけられているのかもしれません。
ク・ナウカの「王女メデイア」は、何度も再演を重ねている代表作。
単にエウリピデスの「メデイア」を上演するのでなく、宮城聰による巧みな仕掛けが施されています。
まずひとつめとして、一つの役をスピーカーとムーバーとに分離する人形浄瑠璃形式による上演。
そしてもうひとつは、舞台を明治時代の料亭に翻案したこと。
この二点が有効に機能して、戯曲「メデイア」に普遍性を与えたのがこの舞台です。
終幕後のインタビューで宮城聰が語るところによると、明治時代に翻案した理由は、西洋の古典であるギリシア悲劇に日本で上演する意味を付与させるためだそうです。
男性が強権的であった古代ギリシア社会と明治時代の日本社会が構造的に類似しているためだとか。
男性による女性支配を象徴するのが、人形浄瑠璃形式による上演。
スピーカーを男性、ムーバーを女性にすることで、必然的に女性は男性の語る言葉によって動かされることになります。
しかしながら「メデイア」は女性が男性に支配される劇ではなく、むしろイアソンという男性の支配に反逆する劇です。
その証拠に明治時代の料亭でも、それまで男性の言葉に支配されていた女性が反逆を行って幕を閉じます。
そして宮城聰による最大の仕掛けは、メデイアの着物にチョゴリを用いていることです。
彼女の祖国を朝鮮半島にすることで「支配−被支配」の関係性を、男女の間にあるミクロなものから国家間のマクロなものへと拡充させているのです。
西洋の古典が現代日本の演劇へと脱皮した瞬間でした。
宮城聰のインタビューに「なるほど」と唸った反面、ク・ナウカの人形浄瑠璃形式はこのために開発されたのかもしれません。
支配−被支配という人間の本能ともいえる関係性に問いかけたこの作品を、「人間の原始なる部分に突きつけられている」と形容したのはそのためです。
またこの舞台では、俳優の力が最大限に発揮されていることにも注目したいです。
メデイアを演じた美加里と阿部一徳。
正直なところ、この作品がもっとも美加里の魅力を引き出していると思います。
やはり美加里は語らないのが一番美しい。
舞うかのごとくち振る舞うその姿は、もはや芸術品と表現しても差し支えないでしょう。
対する、美加里の声を担当するのが阿部一徳。
これほど凄まじい語りを聞いたことは未だかつてありませんでした。。
メデイアの狂気にも似た怒りを、時に激しく、ときに静かに、ときに冷酷に表現する阿部一徳の声は、イアソンやクレオンと対話するときはわざと抑揚をおさえます。
そしてメデイアの感情が爆発するときは、これでもかというほど激しく燃え上がるように語る。
凄みと同時に、ものすごい緊張感が画面を通して伝わってきました。
しかし、その緊張感の中に身をゆだねることこそが幸せでした。
ク・ナウカにとってだけでなく、美加里と阿部一徳にとってもこの作品は代表作であることは間違いないでしょう。
言葉の力と肉体の力、この両面から俳優の魅力を最大限に引き出した舞台であるといえます。
このような舞台にめぐり会えたこと自体が幸福です。
演劇を見たことがない人にこそ、ぜひ見てもらいたい舞台だと思います。