キル

脚本:野田秀樹
演出:野田秀樹
上演:野田地図
@Bunkamuraシアターコクーン (1994年1月)

出演:
堤真一・羽野晶紀・渡辺いっけい・鷲尾真知子・深沢敦・新橋耐子・小田豊・西牟田恵・苅部園子・山西惇・野田秀樹



あらすじ

モンゴルの草原でミシンを踏む男がひとり。
名を、テムジン。
ファッションデザイナーの息子として生まれた彼もまた、天才デザイナーであった。
自らのデザインを世界の制服=征服として、「羊の国」の中でその支配を広げていった。
あるとき「絹の国」から美しい女シルクをめとるが、やがて他民族にさらわれて、その子供を宿してしまう。
実はテムジンもまた、同様にして生まれた子供であるといわれていたのだ。

生まれた息子バンリは、テムジンよりも才能を持っていた。
バンリを邪魔に感じたテムジンは、西洋支配のためにバンリを派遣する。
しかしそれがバンリを殺すためであることをシルクに感づかれたころ、偽ブランドが登場する。
身内の中に偽ブランド=裏切り者がいるのではないかと疑い始め、側近である結髪を殺してしまう。
しかし彼が何の罪もないことがわかってからは、次第に狂気の沙汰へとなってゆく。

東洋の西洋の境目である「シャネルの大河」を渡ろうとしたとき、偽ブランド「蒼い狼」と戦うことになる。
大河のその水面に映った偽ブランドは、父親の影そのものであった。
しかし父親には勝てなかったテムジンがミシンの前で息絶えたとき、またもうひとりのテムジンが生まれる。
母親の腕の中で眠るテムジンは、今ごろ世界を征服する夢を見ているのかもしれない。

一台のミシンが見た夢が、モンゴルに広がる空の色に染まってゆく。



評

一台のミシンが見た夢が、モンゴルの草原のようにどこまでも無限に続いてゆく。
しかしながらその背後で描かれているのは文化帝国主義と、それによって世界を手に入れようとした男三世代にわたる興隆と没落の物語です。
野心を横糸に、そして繰り返される悲しみをはらんだ「血の呪い」を縦糸にして編み上げた「夢」という名の布地は、その名のとおり一瞬の淡い「夢」でしかなかったのかもしれません。

この戯曲は、言葉の新たな可能性を生み出した作品であると評価できます。
「キル」というたった二音が、「着る」「生きる」「斬る」「切る」「KILL」と様々に意味を変えて、通奏低音のようにテムジンたちを知らず知らずのうちに支配します。
同時に、「キル」という言葉が普遍性を持つとも言えます。
野田秀樹は唐十郎の影響こそ受けてはいますが、決定的に違うところは言葉の意味を一度「音」に解体してから広く拡充され、それが次第にストーリー展開の背骨となってゆくこと。
もちろん野田秀樹以前の劇作家も言葉と勝負をしてきたことには違いありませんが、この「キル」に代表されるような言葉の使い方をしたのは彼が初めてだと思います。
そういう意味では「ダジャレ」などと形容されることもありますが、「キル」は言葉の新たな可能性を生み出した戯曲であると思っています。

観劇して、まず幕開きと幕切れの美しさに圧倒されました。
テムジンをに率いられて草原をゆっくりとあるいてゆくオープニングと、巨大な青い布で舞台が染められるラスト。
そして壮大なペンタトニックの音楽。
「キル」よりも美しい幕開け・幕切れを見たことがありません。
そればかりでなく、ロンドン留学から帰国した第一作であるためか、野田秀樹が得意とする演劇的ギミックがふんだんに用いられています。
たとえば「制服=征服」という言葉遊びに関わって、ファッション戦争という比喩のとおりファッションによる戦争が行われるのです。
テムジンの支配が広がるに従って、ファッションショーは「ファッショのショー」と揶揄されるとおり、真っ赤な衣装で機関銃をかたどったミシンを持ち、暴力性を帯びてきます。
当初は好評を得た彼のモードは、偽ブランド(=裏切り者)に対する恐怖から狂気をおびえてくるようになると、大不評を買うようになります。
そして最後はたったひとりで静かに死んでゆくのです。

堤真一は世界をすでに征服した男ではなく、世界を征服しようとした男としてテムジンを描いています。
多少台詞が一本調子なきらいがあるものの、粗野で不器用なテムジンの役柄にぴったりとはまっていたのではないでしょうか。
羽野晶紀は、世代を超えた「血の呪い」に支配されがちなこの作品において無垢な存在感が救いになっていました。
個性の強い俳優らが揃っているため、彼女がひとりいるだけでアンサンブルにバランスが生まれます。

実力のある俳優たちによって紡がれた、地平線まで広がる物語。
テムジンとともにその地平線を遙かにのぞむことができただけでも、感無量です。