脚本:唐十郎
演出:唐十郎
上演:唐組
@新宿花園神社 (2006年5月)
出演:
辻孝彦・稲荷卓央・藤井由紀・鳥山昌克・丸山厚人・赤松由美・唐十郎 ほか
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その古びたアパートには、ひとりの紙芝居屋の老人が住んでいた。
名を、情夜涙子(じょうやるいこ)。
彼のもとを頻繁に訪れる男がいる。
牧村真吾。
コンタクトレンズの営業マンである。
彼は古本屋で破れた紙芝居を見つけ、その虜になっていた。
その紙芝居の由来をさぐるうちに情夜涙子と知り合い、交流をしている。
情夜涙子のもとには彼のほかに、弁当屋の娘・染井るい子や介護ヘルパーのネンネコ社が訪れる。
涙子を犯罪に利用しようとするネンネコ社をはじめ、映画看板描きの青年・群青疾風(ぐんじょうはやて)とその恋人・名雲ひとみ、さらには涙子の同居人・紅屋運ベエまでをも巻き込んで騒動がはじまる。
群青疾風が恋人とのあいだに交わしたスネークルビーという指輪を追い求めるうちに、いつしかみな紙芝居の中の世界へと入り込んでしまう。
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唐十郎のロマンは輝いている。
小さなテントに立ちこめる熱気、その中で演じる役者たちの汗がひとつまたひとつキラリと光るように、戯曲や演出のあちらこちらにキラリと光るロマンがひそんでいます。
コンタクトレンズによって風景を切り取るという発想は唐十郎ににしかできない柔軟なアイディアです。
切り取られた風景と、紙芝居によって紙面に切り取られた風景が重なるとき、そこへスネークルビーが転がってくる。
幕切れに、牧村は染井るい子を紙芝居の町から連れ戻そうとします。
「君を紙芝居の絵の町に置いていくことになってしまうから」と。
ここで描かれているのは現実とフィクションのはざまです。
現に、群青疾風や牧村の先輩社員など、しばしば現実と虚構の境目が曖昧な人物が登場します。
切り取られた日常生活を客観的に見つめたとき、もしかしたら日常と思われていたものは日常的でないかもしれない。
レンズの上に切り取るか、紙の上に切り取るかの違いですが、登場人物たちは「スネークルビー」を仲介役として現実と非現実の間を行き交います。
そして現実に対しても、非現実に対しても「白い牙」を突き刺すのです。
二度と行き交うことのないように、楔を打つかのごとく。
このような空想的な物語を決してファンタジーにすることなく、むしろアジテートするように仕向ける唐十郎の舞台づくりは、日本の現代演劇においては未だに特異な存在です。
きっと生で観ていたら、体の内から更なるエネルギーが沸いてきていたことでしょう。
かつてアングラで若者を熱狂させた理由がわかります。
とりわけ、愛すべき役者たちに拍手。
個性にあふれた役者が、活き活きと舞台上を跳躍していました。
この舞台が活気あふれるものになっていたのは唐十郎の言葉の力もあるでしょうが、俳優がそれを自分のものにしているためでもあります。
「特権的肉体論」を標榜しているだけあって、役者中心の舞台づくりを行っていることがよく分かります。
自由で、のびのびとしていて、舞台に立っていることこそが喜びなのだということがよく伝わっています。
そこには演出家を頂点としたヒエラルキーなど存在しません。
主役としてキラキラ光っていた稲荷卓央、可憐なヒロイン藤井由紀、お茶目な悪役の鳥山昌克、二枚目の丸山厚人、泥臭い色気がむしろ魅力の赤松由美。
個性的な彼らが、紙芝居とスネークルビーをめぐって跳梁跋扈するさまは見応えがありました。
特徴的な台詞まわしで観客の心をわしづかみにする一方で、チラリとお茶目なところも見せるから愛らしい。
だから、愛すべき役者たちという表現がぴったりなのです。
僕はこの舞台で唐十郎を初体験しました。
とにかく「わからない」「難解だ」といわれる唐十郎の戯曲ですが、全くその通りでした。
観客がなぜ笑っているのか、なぜ役者が見栄を切るのかさっぱり分かりませんでしたが、期間をおいて再度観劇すると非常に理解が容易でした。
とりわけ、筋書きの面白さに魅了されました。
複雑で魅力的な筋書きに彩りをそえるように、音楽も秀逸でした。
異国情緒を感じさせて耳に残るメロディが、さながら音楽劇のごとく作品全体にちりばめられていました。
いつまでもこの劇空間の中に浸っていたいと思わせてくれる作品です。