走れメルス ── 少女の唇からはダイナマイト!

原題:『走れメルス──燃える下着はお好き』 (1978年より改題)
脚本:野田秀樹
演出:野田秀樹
上演:野田地図 (初演:夢の遊眠社/1976年)
@Bunkamuraシアターコクーン (2005年1月)

出演:
中村勘太郎・深津絵里・河原雅彦・小西真奈美・古田新太・小松和重・峯村リエ・濱田マリ・池谷のぶえ・浅野和之・松村武・腹筋善之介・六角慎司・櫻井章喜・野田秀樹



あらすじ

昭和30年代。
少女・芙蓉と、彼女を恋い慕うあまり下着泥棒を繰り返してしまう少年スルメ(久留米のスルメ)がいる。
芙蓉は、母から譲り受けた青春歌集を大切に持っており、そこには「主が死ぬと部下にするの、メルス」という不思議な文章がある。
一方で、その芙蓉が愛用する鏡台の向こうでは、スターのメルス・ノメルクが結婚式場から零子を連れ去ってしまい、そのあとを「七人の刑事」が追うことになる。

こうして鏡をはさんだ二つの世界が近づき始める。
芙蓉の前に逃げてきたメルスが現れ、まるで待ち望んでいた「救い」と出会ったかのようにメルスに惹かれる芙蓉。
そして青春歌集にひそんだ不思議が解かれ始める。
「主が死ぬと部下にするの、メルス」という不思議な文章の謎がとけたとき、しかしそのときにはすでに、芙蓉にとってもうメルスは「救い」ではなくなってしまう。
彼女を救えるのは彼女自身。
「お砂糖に火をつけて」という芙蓉の言葉どおり、嫉妬に燃えたスルメは「お砂糖」もとい「お里」つまり芙蓉の下着に火を放ってしまう。
世界は大火につつまれ、芙蓉を手にいられないメルスは最後の物理実験として、彼女を刺し殺してしまう。

そして世界のすべてが焼け跡になる。
メルスはもう抜け殻でしかない。
そして眼下広がる焼け跡を見下ろしながら、人々はこれからの再起を誓う。
その焼け跡の景色の中には、スルメがただただ芙蓉の死体を抱き続けているのみである。



評

少女の恋心は世界を変える。
少女にとって恋こそが世界そのものであり、世界のすべては恋なのかもしれません。
メルスの幻影に気づいてしまったことで瓦解する世界を見ていると、そう思わずにはいられません。

この戯曲は、少女の青春時代そのものを描いたものです。
青春とは甘く酸っぱいものであり、恋に恋するかのごとく幻想に近いものでもあります。
少女は、その幻想になかば夢をみることで青春時代を過ごしてゆきます。
そして青春は幻想であると気づいたとき──すなわち現実の恋に目を向けるようになったとき、それまで夢見心地だった「世界」は音を立てて瓦解し、新しい世界へと踏み出すことになります。
この戯曲において少女の「世界」を象徴しているのが、芙蓉が青春歌集に対して抱いていた幻想です。
その幻想が具現化したものがメルス・ノメルク。
しかしメルスなど本当はいないことに気づいてしまいます。
幻想を抱くことによって生きていた芙蓉にとっては、幻想の崩壊が世界の瓦解に直結するのでしょう。
そしてもう一つは、愛する芙蓉を殺してしまったスルメにとっての「世界」の瓦解。
スルメにとっては芙蓉に恋することで生きていたため、芙蓉の殺害が世界の崩壊に直結してしまったのです。

加藤ちかの美術は、そのような切ないメッセージを的確に表現していました。
劇場に入るなり、一面の焼け野原が観客の目を釘付けにします。
スルメの長台詞が終わったと同時に焼け野原が上昇し、その下に真っ白な新世界が広がっています。
そしてクライマックス、スルメの放った火で世界が焼け落ちると同時に、焼け野原が下降するのです。
その様子がまさに「世界」が瓦解する様子そのもので、衝撃的な美術でした。
幕開け・幕切れでは「キル」を越えるものはないと書きましたが、美術では「走れメルス」以上のものには出会っていません。

アイディアにあふれた加藤ちかの美術の中で、俳優たちは難解な戯曲を楽しんでいるかのごとく、のびのびと動き回っていました。
コケットリーあふれる少女の深津絵里、気丈な小西真奈美というふたりのヒロイン。
痛いほど一途で愚直な中村勘太郎のスルメ、ハンサムな鏡の中の幻想である河原雅彦のメルス。
まったくバラバラの個性ではありますが、四人の立ち位置や構造がとても明確に演出されていて、見事にひとつにまとまっていました。

とりわけ中村勘太郎が表現する、スルメの一途さはこの舞台の魅力のひとつです。
最も胸に痛かったのが、クライマックスで芙蓉を殺してしまうシーン。
「お砂糖」がどうしても「お里」にしか聞こえなくて、「お砂糖に火を付けて」という芙蓉の言葉どおりのことをしてあげたスルメ。
しかし芙蓉はまったくそれを望んでいなかった。
逃げまどう芙蓉を追いかけて殺すスルメの姿は、青春時代に道に惑った男子の姿そのものです。
もちろん野田地図の魅力である、粒ぞろいの脇役たちも光っていました。
芙蓉に振られ続ける百太郎(小松和重)が「地方公務員のばか、ジョニー・デップのような色男と僕をののしってください」と言い放ち、手鏡に映らないメルスにむかって三人娘(濱田・峯村・池谷)が「メルスなど最初からいないと知ってた」と言い放ち、大地主(古田新太)は圧倒的な貫禄を見せつけてくれました。

ちなみに、当初はこの作品にはまったく興味がありませんでした。
劇団時代の野田作品はとても難解だと聞いていたのでスルーするつもりでしたが、赤い背景に黒い服を着たキャストたちのヴィジュアルがとても魅力的で、ためしに観にいってみたら「良い意味で」期待を裏切られました。
野田秀樹による言葉の洪水に身をおくと、難解さよりも演劇だからこそ表現できる醍醐味にどっぷりと身を預ける幸福感にひたっていました。
映画やドラマでは決してできない表現の数々。
これほど言葉を使いこなす劇作家は他にいないのではないでしょうか。
人生で衝撃をうけた芝居のひとつにこの作品を挙げます。
初めて劇場まで見に行った野田作品のためか思い入れもしとしおですが、なによりも戯曲そのものの魅力がすさまじいです。