原作:フランツ=カフカ 『変身』 Franz Kafka, "Die Verwandlung"
脚本:スティーブン=バーコフ Steven Berkoff
翻訳:川本Y子
演出:スティーブン=バーコフ
上演:パルコ製作 (初演:アートスフィア製作/1992年)
@ル・テアトル銀座 (2010年3月)
出演:
森山未來・穂のか・永島敏行・久世星佳・福井貴一・丸尾丸一郎
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布地の営業マンで一家の稼ぎ頭であるグレゴール・ザムザは、ある朝起きると、巨大な「虫」に変身していた。
妹は、「虫」の醜い姿におびえながらも献身的に世話をする。
母は、「虫」のことを自分の息子だと認識しようと努める。
父は、「虫」を自分の息子とは認めず、しだいに忌み嫌うようになる。
そんな折り、ザムザ家に下宿人がやってくる。
グレゴールが働けなくなった一家にとって、下宿人は貴重な収入源である。
ペットを飼育していると言い、下宿人に「虫」の存在をひた隠しにする一家。
しかしひょんなことから「虫」の存在が知られてしまい、怒った下宿人は家を出ていってしまう。
絶望し、「虫」に対する本当の気持ちをあぶり出されてしまった一家の姿をみて、「虫」は自ら死を選ぶことにする。
与えられた食べ物を口にすることをやめ、やがて「虫」は衰弱死する。
一家は失われた時間を取り戻して新しい生活を歩むために、仕事を休み、三人で朝の散歩へと出かけてゆく。
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「変身」の初版本の表紙をご存じでしょうか。
この原作は、人間が突然「虫」になることで有名な不条理文学の代表的作品ですが、実は表紙には「虫」の姿はまったく描かれておりません。
描かれているのは開け放たれたドアと、その奥にひそむ「何か」に対して恐れおののいている人物のみです。
番組内で紹介されたその表紙には、この作品の本質が描かれているような気がしてなりません。
先述したように表紙にはグレゴールの姿は描かれていません。
ただ、彼の存在がとてつもなく恐ろしい「何か」に変わったことだけは確かです。
作中ではそれを便宜上「虫」と呼んだだけで、もしかしたら猛獣のようなものかもしれないし、怪物のようなものかもしれないし、はたまたグレゴールの姿形や性格はそのままに、「存在」だけが虫のごとくひどく恐ろしいものに変容してしまったのかもしれません。
また別の側面からも、「存在」に関して興味深いことに気づきます。
下宿人が家を去った後に、怒った妹は次のようなことを言います。
「私たちがあれ(虫)をグレゴール兄さんだと信じ込んできたことが諸悪の根元なのよ」
もしかしたらザムザ家が、「虫」をグレゴールだと信じ込んでいただけで、グレゴールなど最初からいなかったのかもしれません。
そのように考えると、人間の「存在」というものはとても曖昧だということが分かります。
間違いなく言えるのは、その人が「人間」として存在するためには、周囲がその人を「人間」だと認知することが第一条件なのです。
2年前に観劇した安部公房の「どれい狩り」にも通じるものがあります。
この舞台は、バーコフ自身がグレゴール自身を演じた初演以来、常にセンセーションを巻き起こしてきた作品だそうです。
隙のない舞台。
そう言わざるを得ません。
美術、音楽、照明、ヘアメイク、そして俳優の動きまで、完璧に計算され尽くしていて、観客に対してまったく隙がありません。
とりわけ巨大な虫を象ったかのような鉄のフレームでできた美術や、強烈な印象を残すヘアメイクは特に秀逸であったと思います。
まさに世界的な評判に恥じぬ舞台であったと思います。
今回グレゴールを演じたのは、森山未來。
映画監督のロマン=ポランスキー、バレエダンサーのミハイル=バリシニコフ、演出家の宮本亜門など、著名な芸術家がグレゴールを演じてきただけあってプレッシャーは大きかったことでしょう。
自分自身、森山未來の芝居は「血の婚礼」で初見していたので少し不安があったのですが、良い意味で裏切ってくれました。
よく通る発声、キレの良い身体の動き、多彩な声色を使い分けるなど、「血の婚礼」のときとはまるで別人であるかのような好演。
(失礼ながら)虫っぽい風貌も相まって、歴代のグレゴールに肩を並べる好演だったと思います。
他の出演者も、バーコフ演出による象徴的な所作をマスターしながらも、それぞれの役の性格をぞんぶんに表現していました。
絶妙なやりとりを繰り広げるザムザ一家はもちろんのこと、主任を演じた福井貴一や下宿人を演じた丸尾丸一郎もまた、登場時間は短いにもかかわらず鮮烈な印象を残してくれました。
隙がなく、緊張感に満ちたその空間そのものがまるでモダンアートのような舞台でした。
世界の才能のと鉄もなさを見せつけられました。
短い時間にアーティスティックな才能が凝縮した、すばらしい舞台でした。